花の名前


第二章 花の名前

 四月になると、相川町の桜が一斉に咲いた。

 島田工務店の裏手にある川沿いの並木道は、この季節に町でいちばん美しい場所になる。島田が子どもの頃から変わっていない。春休みには子どもたちが走り回り、地元の人間が散歩に来て、週末には花見の宴が開かれる。今年も同じだった。

 島田は朝の仕事の前に、川沿いを歩くことを習慣にした。

 東京にいた頃は朝のルーティンなどなかった。早起きして現場に向かうか、遅くまで書類仕事をして倒れるように眠るか、そのどちらかだった。しかしここでは、早朝の静けさがある。鳥の声と、川の音と、遠くで農作業を始める人間の気配。それが心地よかった。

 高田さんの花屋の前を通ると、開店前にもかかわらず店先に人影があった。高田さんが軒下の鉢を動かしていた。

「おはよう」と島田は声をかけた。

「あら、おはよう」と高田さんが振り返った。「早いね」

「朝の散歩の習慣ができた。二週間で」

「この町に染まってきたね」と高田さんは笑った。「ちょっと待って、これ持っていって」

 高田さんは店の中に入り、小さな鉢植えを持ってきた。薄紫の小さな花が咲いている。

「これ、何ていう花ですか」と島田は聞いた。

「ネモフィラ。春の花。あなたの家の窓辺においてあげて。部屋が明るくなるから」

「買いますよ」

「いらない。お父さんへのお見舞い代わり」

 島田は鉢植えを受け取った。確かに、見ているだけで気持ちが和らぐような色だった。

「高田さんは、いつから花に詳しいんですか」

「子どもの頃から好きだった。家に花を飾る習慣があって、お母さんがいつも季節の花を買ってきてたから」

「俺の家には、そういう習慣がなかった」

「うちに来てごらん、いつでも。何かしら咲かせてるから」

 島田は「そうします」と言った。それは社交辞令ではなかった。

 四月の最初の土曜日、島田は高田さんの花屋に行った。

 平日の昼間とは違い、土曜日の午前中は客が来た。近所の主婦が花を選び、老人が仏花を買い、若い女性がアレンジメントを注文した。高田さんは一人でてきぱきと接客し、合間に島田に話しかけた。

 客が途切れた時間に、二人は店の奥のテーブルで緑茶を飲んだ。

「繁盛してますね」と島田は言った。

「そこそこ。田舎の小さな花屋だから、そこそこで十分だよ」と高田さんは言った。「大きくしようとは思わなかった?」と島田は聞いた。

「昔は思ってた。でも大きくすることより、長く続けることの方が大事だって、途中でわかった。この町に根付いた店でいたい。それだけ」

「それだけ、というのは、すごいことだと思う」

 高田さんは少し首を傾げた。「なんで?」

「俺は二十七年間、何かに根付いたことがなかった気がするから。現場から現場へ移って、会社の中での評価だけを気にして生きてきた。根っこがなかった」

「今はどう?」

「今は、少し根付いている感じがする。帰ってきてまだ一か月も経ってないが」

 高田さんはしばらく緑茶を飲み、「根付くって、時間がかかるよ」と言った。「植物も同じで、植え替えたばかりの頃は不安定で、すぐ枯れそうに見える。でも根がちゃんと張れば、強くなる。時間をかけていいんだよ」

 島田は高田さんの言葉を、しばらく考えた。

 植物に例えられたのが不思議と腑に落ちた。花屋という仕事が、彼女の言葉を育てているのかもしれない。

「高田さんは、もともとこういうことを話すのが上手でしたか」

「全然」と高田さんは即答した。「高校の頃は無口だったよ、私。人前で話すのが苦手で、国語の授業の音読でさえ緊張してた」

「そうは見えない」

「生きてると変わるよ、人間も。いい意味でも、悪い意味でも」

 その日、島田は閉店時間まで花屋にいた。

 閉店後、高田さんが「晩ごはん食べてく?」と言った。「近くに居酒屋があって、一人で行くより二人の方が楽しいから」という理由だった。

 二人は商店街の端にある小さな居酒屋に入った。カウンターが六席、テーブルが二つの狭い店で、大将が一人でやっていた。刺身と地魚の焼き物、それから地元の酒。どれも旨かった。

 島田は東京での話をした。現場監督の仕事のこと、転勤の多い生活のこと、結婚してから離婚するまでの七年間のことを、高田さんは黙って聞いた。ときどき相槌を打ち、ときどき質問した。話していて、不思議と楽だった。

「元奥さんのこと、今でも引きずってる?」と高田さんは聞いた。唐突な質問ではなく、話の流れの中での、自然な問いかけだった。

「引きずっているというより、後悔している」と島田は言った。「妻が寂しかったことに、俺が気づいていなかった。ずっと現場仕事で不在で、家にいても書類仕事をしていて、妻が何を思っているかを考える余裕がなかった」

「それは妻さんが悪いわけじゃないし、あなただけが悪いわけでもない。ただ、ずれていったんだよね」

「そうだと思う」

「うちもそうだった」と高田さんは言った。「旦那が悪い人間ではなかった。ただ、私が花屋をやりたいと言ったとき、全力で反対した。それだけで決定的にずれた。自分の夢に反対した相手と、一緒にいるのが難しくなった。単純なんだけどね」

「単純じゃない。重要なことだ」

「そうかな」

「そうだ。自分が大切にしているものを否定されたら、それは関係の根幹に関わる」

 高田さんは少し驚いたような顔をしてから、笑った。

「島田くん、高校の頃より話が上手になったね」

「俺もあの頃は無口だったから」

 二人は顔を見合わせ、同時に笑った。

 帰り道は同じ方向だった。夜の商店街は人が少なく、街灯だけが光っている。山の向こうに月が出ていた。ほぼ満月で、田舎の空には遮るものがないから、東京では考えられないほど明るい。

「月が明るい」と島田は言った。

「田舎は月が近い気がするよね」と高田さんは言った。「子どもの頃、満月の夜は眠れないくらい部屋が明るかった記憶がある」

「そういえば俺も。母親がカーテンを二重にしてたのを思い出した」

「懐かしい話ばかりになる。二人とも、ここの出身だから」

「それが悪くない」と島田は言った。

「悪くないね」と高田さんも言った。

 高田さんの家は花屋の上の階にあった。店の前で別れ、島田は一人で歩いて帰った。川沿いの道に出ると、桜並木が月明かりに照らされていた。花はもう散りかけていて、風が吹くたびに白い花びらが川面に落ちていく。

 島田は立ち止まり、しばらく眺めた。

 東京にいたとき、桜を眺めたことが何度あったか、思い出せなかった。毎年咲いていたはずなのに、ほとんど記憶にない。

 相川町に戻ってきてから、景色をよく見るようになった気がする。花の色や、山の形や、夕暮れの空。そういうものを、東京にいた頃は見ていなかった。

 それとも、見るゆとりがなかっただけで、見ようとすれば東京でも見えたのだろうか。

 島田にはわからなかった。

 ただ今は、目の前の桜が、月に照らされて白く輝いていた。

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