第三章 田植えの頃
五月になると、相川町の田んぼに水が入り始めた。
朝日に照らされた水田が鏡のように光る様子は、島田が子どもの頃から好きだった光景だった。帰ってきて最初の五月に、それをまた目にすることができた。島田は朝の散歩の途中でしばらく立ち止まり、水田の向こうにある山の稜線を眺めた。山は若葉で覆われていて、萌葱色が目に沁みた。
島田工務店の仕事は、少しずつ安定してきた。
最初の一か月は、父親から引き継いだ案件の対応と、会社の帳簿や書類の把握で追われた。二か月目に入ると、自分で新規の見積もりを作れるようになり、地元の建設業者とのやり取りも慣れてきた。田辺さんと深川が現場をしっかりと回してくれるおかげで、島田は営業と管理に集中できた。
父親は週に二、三度、事務所に顔を出すようになっていた。
右手の回復はゆっくりとしていたが、父親は毎朝リハビリをして、諦めていない様子だった。事務所に来ても仕事の指示を出すわけではなく、ただ椅子に座って、島田の仕事ぶりを見ていた。
「何か言いたいことがあれば言ってくれ」と島田は一度父親に言った。
「特にない」と父親は言った。「見ているだけでいい」
その答えが、島田には意外だったが、悪い気はしなかった。
高田さんとは、週に一度か二度、会うようになっていた。
特に約束をしているわけではない。島田が朝の散歩で花屋の前を通ると顔を合わせることが多く、昼に同じ定食屋で鉢合わせることもあり、夕方に偶然商店街で出くわすこともある。そういう偶然が積み重なり、いつの間にか月に何度か一緒に食事をするような間柄になっていた。
ある日曜日の午後、高田さんから電話があった。
「今日暇? ちょっと山の方に行きたいんだけど、一人だとさびしくて」
「行く」と島田は即座に言った。
高田さんが運転する軽自動車で、二人は山の方へ向かった。町から車で三十分ほどの場所に、古い里山があって、春にはさまざまな野草が咲くという。高田さんは毎年この季節に来て、野草の写真を撮ったり、市場には出回らない珍しい草花を見たりするのが習慣なのだそうだ。
「花屋をやっていると、自然の花が見たくなる。育てた花ばかりを見ていると、どこか疲れてくる」と高田さんは言った。ハンドルを操りながら、前を見て話す。
「育てた花と、自然の花は、どう違うんですか」
「どちらも美しいけど、種類が違う。育てた花は人の手が入った美しさで、自然の花は誰の手も借りていない美しさ。どちらかが上というわけじゃないけど、自然の花を見ていると、ああ、花ってもともとこういうものなんだと思い出させてもらえる気がして」
島田は窓の外を流れる景色を見た。田んぼと畑と、山へと続く細い道。
里山は、木々が茂る斜面に小道が続いていた。二人で並んで歩いた。高田さんはときどき立ち止まり、草の名前を教えてくれた。タンポポとスミレは島田も知っていたが、小さな白い花がウマノアシガタで、黄色い小花がキジムシロだとは知らなかった。高田さんはそれを当たり前のように、けれど押しつけがましくなく、通り過ぎる草のことを話してくれた。
「全部、覚えているんですか」と島田は聞いた。
「全部じゃない。でもよく見る花は覚える。毎年この季節に来ていると、同じ場所に同じ花が咲いているから、顔なじみみたいになる」
「顔なじみ」
「そう。この株のスミレは、もう七年、同じ場所で咲いてる。春になるたびに、ああ、また来たね、と思う」
小道の途中に、古い木のベンチがあった。朽ちかけていたが、まだ座れた。二人はそこに腰を下ろし、水を飲んだ。新緑の中に風が通り、遠くで鳥の声がした。
「島田くんって、恋愛は苦手そう」と高田さが不意に言った。
島田は少し面食らった。「なぜそう思うんですか」
「なんとなく。仕事のことはすらすら話せるけど、自分の感情のことになると急に慎重になる気がして」
「……そうかもしれない」と島田は認めた。「現場仕事が長かったから、効率と結果を重視することが染みついてしまって。感情は後回しにしてきた気がする」
「それは後回しにできないんだけどね」
「そうだな」
「元奥さんと、最後にちゃんと話したの?」
「話し合いはした。でもちゃんと話したかというと、違うかもしれない。お互いの言いたいことを言って、出口を見つけた感じだった。心の底から向き合ったかというと、自信がない」
「怖かったのかもしれない」と高田さんは言った。「本当に向き合うのが」
島田は黙った。
その指摘は、的を射ていた。
仕事で何千万円もの現場の責任を負うことは怖くなかった。しかし一人の人間と、感情をむき出しにして向き合うことは、なぜかずっと怖かった。強がっているわけでも、冷たいわけでもない。ただ、自分の弱い部分を見せることへの、根拠のない恐怖があった。
「高田さんは、向き合えましたか。元ご主人と」
「私も怖かった。でも花屋のことで、もうぶつかるしかないと思ったとき、全部話した。泣きながら。格好悪いけど、それしかできなかった」
「それで、ずれたままだったのか」
「そう。でも後悔はない。ちゃんとぶつかったから」
島田は遠くの山を見た。
五月の山は深く、何層にも重なる緑が美しかった。その向こうに、どこまでも空が続いている。
「俺は、もう一度、ちゃんと誰かと向き合える気がするか、自分でもわからない」と島田は言った。独り言のように、しかし高田さんに聞こえるように。
高田さんはしばらく黙っていた。
それから静かに言った。「わからなくていい。今はわからなくていい。ただ、向き合いたいと思う気持ちがあるかどうかだけ、確かめておけばいい」
「その気持ちが、あるのかもしれない」と島田は言った。
「それなら、十分じゃない」
二人は里山を下り、車に戻った。帰り道は行きと同じ道を通ったが、景色が違って見えた。島田には、その理由がわかった。見ようとする目が、少し変わったからだ。
町に戻り、花屋の前で車を降りた。
「今日、ありがとう」と島田は言った。
「こちらこそ。一人だと話し相手がいないから、たすかった」
高田さんは店に入っていった。
島田はしばらく、花屋のショーウィンドウを眺めた。春の花が並んでいて、夕暮れの光の中でそれぞれの色が柔らかく輝いていた。
あのネモフィラは今も、島田の部屋の窓辺で咲いていた。

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