第五章 春になれば、また会おう
秋が来て、冬が来た。
相川町の冬は、東京より寒かった。山に囲まれた盆地は朝晩の冷え込みが厳しく、十一月の終わりには初霜が降り、十二月には時折雪がちらついた。島田は子どもの頃に慣れ親しんだはずのその寒さを、五十一年ぶりに体で思い出した。
冬の仕事は、屋外の現場作業が減り、見積もりや設計の仕事が増えた。島田は事務所の暖房をつけ、図面と帳簿に向かいながら、来年の春以降の工事計画を立てた。新規の相談がいくつか来ていて、そのうちの一件は規模が大きかった。近隣の農家が古民家を改修して、宿泊施設にしたいという話で、島田が初めて主体的に進める大きな案件になりそうだった。
高田さんとの関係は、ゆっくりと深まっていた。
祭りの夜にお互いの気持ちを話してから、何かが変わったわけではなかった。付き合うとか、そういう言葉は使わなかった。ただ一緒にいる時間が少しずつ増えて、話す内容が少しずつ深くなって、二人でいることが当たり前になっていった。
週末はたいてい、どちらかの家で食事をした。
高田さんの料理は、素材を活かしたシンプルなものが多かった。地元の野菜と、近所の漁協から買う魚。大げさな調理をしないが、どれも旨かった。島田は料理ができないと思っていたが、高田さんに教わって、いくつかは作れるようになった。
「うまく作れた」と島田が言うと、高田さんは「センスある」と言った。
「料理にセンスなどない。教え方がいいだけだ」と島田は言い返した。
「両方だよ」と高田さんは笑った。
冬の寒い夜は、二人で同じコタツに入り、熱燗を飲みながら話した。話題は他愛ないものが多かった。子どもの頃の話、仕事の話、好きな食べ物の話、好きな映画の話。それが長い夜に静かに積み重なっていった。
十二月の中旬、島田の娘が電話をしてきた。
娘、というのは元妻との間の子ではなく、元妻が前の結婚でもうけていた子で、島田と一緒に暮らした七年間を過ごした娘だった。今は二十三歳で、東京で働いている。島田とは特に絶縁したわけではなかったが、離婚後は年に一度連絡が来るくらいの関係だった。
「島田さん、田舎に帰ったって聞いた。元気?」
「元気だ。お前は」
「元気。田舎の生活、どう?」
「思った以上に、自分に合っている」と島田は言った。
「よかった」と娘は言った。「一つ聞いていい? 島田さん、誰かいるの?」
島田は少し笑った。「なぜそう思う」
「声が違う。なんか、穏やかになってる」
「……いるかもしれない」
「そっか。よかった」と娘は言った。「島田さんって、一人でいると心配な人だから。誰かそばにいてくれる人がいてくれると、安心する」
電話を切った後、島田はしばらくその言葉を考えた。
一人でいると心配な人。娘にそう言われるということは、そういう風に見えていたということだ。強がっているように見えて、孤独には弱い。七年間、娘と暮らしながら、娘はそれを見ていたのだ。
島田は高田さんに電話した。
「今夜、少し話せるか」
「もちろん。何かあった?」
「娘から電話があった。それで、少し話したくなった」
高田さんの家に行き、コタツで温かいものを飲みながら、島田は娘との電話の話をした。全部ではないが、大事なことを話した。
「娘さんに心配されてるの、嬉しくない?」と高田さんは言った。
「嬉しいというより、恥ずかしい。五十過ぎた男が、心配されるというのは」
「恥ずかしくない。人は誰でも、心配されていい。年齢は関係ない」
高田さんはそのとき、少し間を置いてから、続けた。
「私も、あなたのことを心配しているよ。心配するというのは、その人のことを考えているということだから、悪くないと思う」
島田は高田さんを見た。
「俺も、高田さんのことを心配している」と島田は言った。「一人で店をやって、冬は仕入れが大変だろうと思って、今日も気になっていた」
「気にしてくれてたの」
「毎日、少し気になっている」
高田さんは少し目を細めた。コタツの明かりの中で、その顔がやわらかく見えた。
「ね、一郎くん」と高田さんは言った。「もし来年の春、お父さんの会社が落ち着いたら、少し旅行でも行かない? 二人で、どこか遠くに」
「どこに行きたい」
「まだ決めてない。どこでもいい。新幹線で行けるくらいの距離で、海が見えるところ」
「それなら探せる」と島田は言った。「いい場所を、春までに見つけておく」
「約束ね」と高田さんは言い、右手の小指を差し出した。
五十過ぎた男女が指切りをするのはどうかと思ったが、島田は自分の小指を絡めた。高田さんが笑い、島田も笑った。
年が明けた。
一月、二月と、島田は仕事に集中した。古民家改修の案件は正式に受注が決まり、設計と見積もりに力を入れた。田辺さんと何度も打ち合わせをして、深川も加えて現場の段取りを組んだ。父親もその打ち合わせに加わり、右手が少し回復してきた父親は、実際に図面に書き込みをするようになっていた。
二月の終わりに、父親が島田を事務所に呼んだ。
「一つ話したいことがある」と父親は言った。
「何だ」
「高田の美代子ちゃんのことだ」
島田は少し驚いたが、黙って聞いた。
「あの子のことは、ずっと前から知っている。花屋を始めたとき、母さんがよく花を買いに行った。しっかりした子だ。あの子の旦那と別れたときも、母さんから聞いた。一人で花屋を続けているのも、知っている」
「うん」
「お前が戻ってきてから、あの子と仲良くしているのは、母さんが教えてくれた。母さんはこの町のことは何でも知っているから」
「それで」
「別に、何があるわけでもない」と父親は言った。「ただ、良い人間と付き合え、ということだ。良い人間かどうかは、花を選ぶときの迷い方でわかる。美代子ちゃんは、相手のことを考えながら迷う。自分の好みではなく、相手に似合うものを考えながら。それは良い人間の迷い方だ」
「……父さん、そんなことを考えながら花屋に行っていたのか」
「ただ花を買いに行っていただけだ」と父親は言った。しかし少しだけ、口の端が上がっていた。
三月になった。
島田が帰ってきてから、ちょうど一年が経とうとしていた。
川沿いの桜が、また咲き始めた。去年と同じ桜が、同じ場所で、同じように花をつけていた。しかし今年の桜は、去年とは違う景色として島田の目に映っていた。一年分の記憶が、その桜の前に積み重なっているからだ。
日曜日の朝、高田さんから連絡が来た。
「川の桜、見に行かない?」
「行こう」と島田は即答した。
二人で川沿いの並木道を歩いた。桜はまだ三分咲きで、つぼみが多かった。それでも風が吹くたびに数枚の花びらが舞い、川面に落ちていく。
「来年は、もっとちゃんと咲いてるときに見られるね」と高田さんが言った。
「来年も再来年も、ここで見ることになる」と島田は言った。
「ずっと、ここにいる気がしてきた?」
「ずっといる」と島田は言った。「ここを離れるつもりはない。仕事もあるし、父母もいる。それ以上に、ここに俺の生活がある」
「生活って、大事よね」と高田さんは言った。「恋愛映画みたいなドラマチックなことより、毎日の生活の方が、本当は大切で」
「同じ蕎麦屋で、同じメニューを頼んで、帰り道に同じ道を通る。そういうことが、東京にいた頃は一つもなかった。毎日が、仮暮らしみたいだった」
「今は?」
「今は、ここに根付いている」
高田さんは微笑んだ。
川沿いのベンチに並んで座り、二人は桜を眺めた。特に何か大きなことを話すわけではなかった。ただ隣にいて、同じものを見ていた。その沈黙が、苦ではなかった。
しばらくして、高田さんが言った。
「ね、旅行の件、春になったら行こうよ」
「もう調べてある。長崎の、海が見える宿」と島田は言った。
「本当に調べてたの」と高田さんが目を丸くした。
「約束したから」
高田さは笑った。声に出して笑い、それから少しだけ目が潤んだ。しかしそれを指摘するのは野暮だと島田は思ったので、桜を見続けていた。
「春になれば、また会おう、ってよく言うよね。冬の間に離れ離れになっていても、春になればまた会える。渡り鳥みたいに」と高田さんが言った。
「うん」
「私たちも、そういう感じかもしれない。二十七年離れていて、また春に会った」
島田は桜を見た。
三分咲きの桜が、来週には満開になる。満開になり、散り、そしてまた来年の春に咲く。同じ木が、同じ場所で、毎年繰り返す。それを見続けることができる場所に、島田は今いる。
「来年の春も、ここで見よう」と島田は言った。
「うん」と高田さんは言った。
川沿いの風が吹き、桜の花びらが二人の前に舞い落ちた。
相川町の春は、今年も変わらずそこにあった。

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