夏の終わりに

第四章 夏の終わりに

 七月の終わり、相川町に夏祭りがあった。

 神社の境内に屋台が並び、夜に盆踊りが行われる、小さな祭りだ。子どもたちが浴衣を着て走り回り、老人が縁台に腰かけ、若い男女が人混みの中で肩を寄せ合う。島田が子どもの頃から変わっていない祭りの風景が、二十七年越しにそこにあった。

 その夜、島田は高田さんと一緒に祭りを歩いた。

 高田さんは薄い水色の浴衣を着ていた。島田はいつも通りのシャツと綿パン姿だったが、高田さんに「浴衣着てきたらよかったのに」と言われた。「浴衣は持っていない」と答えると、「じゃあ来年買っておいて」と言われた。

 来年、という言葉が自然に出てきたことを、島田は密かに嬉しく思った。

 二人で焼きそばと焼き鳥を食べ、かき氷を食べた。子どもの頃の祭りの記憶と、今の感覚が重なり合うような奇妙な感覚があった。あの頃は親に連れられて来て、友達と走り回っていた。今は隣に高田さんがいる。同じ祭りで、全く違う夜だった。

「お父さん、よくなってきた?」と高田さんは聞いた。

「リハビリが効いているらしく、右手が少し動くようになってきた。まだ字は書けないが、箸は持てるようになった」

「よかった。お父さん、好きだよ。頑固そうに見えて、花を買いに来るたびにいつも迷うから。男の人がそういうふうに迷うのを見るのが好きで」

「父が迷うのか」と島田は意外に思った。父親のことを、頑固で迷いのない人間だとずっと思っていた。

「すごく迷う。これとこれのどちらが奥さんに似合うかって、毎回私に聞いてくれる。可愛いよ」

 島田は黙って聞いた。

 父親の、知らない側面だった。

 二十七年間、父親のことを遠くから眺めていて、知らないことがまだたくさんある。近くにいるということは、遠くにいては見えないものが見えるということだ。

 盆踊りが始まった。太鼓の音が夜空に響き、やぐらの周りに輪ができていく。高田さんが「踊ろうよ」と言った。

「踊れない」と島田は言った。

「私も踊れないけど、踊るの。失敗しても誰も見てないから」

 引っ張られるように、島田は輪の中に入った。前の人の動きを見ながら、ぎこちなく手足を動かした。リズムが取れない。高田さんもひどかった。二人して笑いながら、それでも踊り続けた。

 踊りの輪の中で、島田は思った。

 東京にいたとき、こんなふうに笑ったことが、いつ以来だろうか、と。

 祭りの帰り道、二人は神社から続く坂道を並んで歩いた。夜の田舎は暗く、足元の草が虫の声を上げていた。遠くに山の黒いシルエットが続き、その上に星が出ていた。

「一郎くん」と高田さんが突然言った。

 名前で呼ばれたのは、久しぶりだった。高校の頃はそう呼んでいたが、再会してからはずっと「島田くん」だった。

「うん」と島田は答えた。

「私、あなたのことが好きになってきてると思う」

 島田は足を止めた。

 高田さんも止まった。二人は暗い坂道に立って、お互いの顔をぼんやりと見た。

「……言ってしまった」と高田さんは言った。笑っていたが、少し緊張した顔だった。「こういうことを言えるほど、若くないのに。歳を取ったら恥ずかしいことは言えなくなると思っていたんだけど、逆だった。もう失うものが少ないから、言えるのかもしれない」

「失うものが少ないから言える」と島田は繰り返した。

「そう。好きだと言って、嫌われたとしても、今の生活は変わらない。花屋は続けていける。それだけで十分生きていける。だから言える。若い頃は、何かを失うのが怖くて言えなかったことが、今は言える。変なの」

「変じゃない」と島田は言った。「俺も、高田さんのことが好きだと思う。気づいてなかったが、今夜の祭りで気づいた。踊りながら笑っているとき、この時間がなくなってほしくないと思った」

 高田さんは少しの間、黙っていた。

「……正直に言ってくれてありがとう」と高田さんはゆっくりと言った。「でも、急がなくていいよ。私もあなたも、急ぐ必要がない年齢だから」

「そうだな」

「ゆっくり、知っていこう。お互いのことを、もっと」

「それでいい」と島田は言った。「それがいい」

 二人はまた並んで歩き始めた。距離は来る前と同じだったが、何かが変わっていた。夜の空気の中に、何か柔らかいものが混じっていた。

 八月に入ると、暑さが本格的になった。

 現場仕事の日は汗をかきながら、島田は田辺さんと深川と一緒に働いた。現場監督というより、実際に手を動かすことも多かった。東京の建設会社では管理がメインだったが、父親の工務店では小規模な現場が多く、誰でも何でもやる必要があった。

 久しぶりに体を動かして仕事をすることが、島田には合っていた。

 夕方、体が疲れて、心が静かになる。風呂に入り、冷たいビールを飲む。窓から夜の田んぼの匂いがしてくる。そういう日の積み重ねが、島田の中に何かを育てていた。

 父親が回復するにつれ、少しずつ会話が増えた。

 ある夕食後、父親が島田を呼んだ。

「お前に謝らないといかんことがある」と父親は言った。

「何を」

「お前が高校を卒業するとき、ここに残れと言わなかった。自分の代で会社は終わりにするつもりだったから。しかしそれは、お前に逃げ道を与えてやれなかったということでもある。地元に帰る理由を、作ってやれなかった」

「逃げ道なんていらなかった」と島田は言った。

「そうか」

「ただ、帰ってきてよかった。今になってそう思う」

 父親はしばらく黙り、それから「そうか」とまた言った。

 その夜、島田は母屋の縁側に座り、夜空を眺めた。夏の夜は虫の声が賑やかで、遠くで犬の声がした。空には天の川がうっすらと見えた。東京では見えない天の川が、相川町の夏の空には当たり前のようにある。

 高田さんに今夜の夜空の話を伝えようと思い、島田はスマートフォンを手に取った。送ろうとして、少し迷ってから、結局短いメッセージを打った。

 「天の川が出ている」

 すぐに返信が来た。

 「私も見てた。同じ空を見てたんだね」

 島田は画面を見つめ、それから夜空を見た。

 同じ空の下に、高田さんがいる。それだけのことが、五十一歳の夏の夜に、じんわりと心に染みた。

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