春になれば、また会おう

春になれば、また会おう


第一章 帰る場所

 長崎行きの特急列車が、山あいの小さな駅に滑り込んできたのは、三月の終わりの夕方だった。

 ホームに降り立った乗客は、島田一郎ただ一人だった。

 五十一歳。黒いスーツケースを一つ引いて、グレーのコートを着て、島田は人気のないホームに立った。駅員も出迎える人間もいない。ベンチに猫が一匹いて、島田を一瞥してから興味なさそうに目をそらした。風が吹いて、ホームの端の桜の木が揺れた。まだ三分咲きか四分咲きで、花びらが数枚、島田の足元に落ちてきた。

 二十七年ぶりだった。

 この駅に降りるのが、ではない。この町に帰るのが、だ。

 島田は改札口を抜け、駅前に出た。タクシーが一台止まっていて、老いた運転手が窓から顔を出した。

「どこまでですか」

「相川町の、島田工務店まで」と島田は言った。

 運転手はしばらく間を置いてから、「島田さんとこですね」と言った。「ご親族ですか」

「息子です」

「ああ、帰ってこられましたか」と運転手は言った。その声に特別な感情はなかった。ただそれだけのことを言った。

 タクシーは駅前の国道を走り、やがて山裾の集落へと入っていった。車窓から流れていく景色は、二十七年前とそれほど変わっていないようにも、全く違うようにも見えた。記憶の中の風景というのは、実物より少し鮮やかに残っているものだ。実際の今の景色は、その記憶より少しだけ色が褪せていた。

 島田工務店は、相川町の中ほどにある小さな会社だった。

 事務所と資材置き場と、その隣に母屋。島田が子どもの頃から変わらない配置だが、事務所の看板が新しくなっていた。父親が倒れる前に替えたのだと、先月電話で聞いていた。

 タクシーを降りると、母屋の方から母親が出てきた。七十二歳。少し小さくなったように見えたが、足取りはしっかりしていた。

「一郎、よかった」と母親は言った。泣かなかった。この人は昔から、人前ではあまり泣かない。

「父さんは」

「今は落ち着いてる。でも右手が、まだうまく動かん」

 父親の脳梗塞は、先月の半ばに起きた。命には別状がなかったが、後遺症で右手の自由が利かなくなった。島田工務店の実質的な仕事の多くは父親が仕切っていたが、それが突然できなくなった。母親一人では会社は回らない。

 島田が東京での仕事を引き払い、帰ることにした理由は、そういうことだった。

 もっとも、それだけが理由とも言えなかった。

 東京での二十七年間、島田は建設会社に勤め、現場監督として全国の工事現場を渡り歩いてきた。十年前に結婚したが、五年前に離婚した。子どもはいない。会社は大手で、給料は悪くなかったが、五十を過ぎてから、自分が何のためにこれをやっているのかが、だんだんわからなくなっていた。現場から現場へ移り、数字を管理し、部下に指示を出し、それを繰り返す日々。誰かに必要とされているような感覚が、薄かった。

 だから父親の発病は、島田にとって、ある種の口実でもあった。

 帰るための理由が、できた。

 夕飯は母親が作った煮物と焼き魚だった。父親は食卓に座り、左手でゆっくりと箸を動かしていた。右手は膝の上に置かれたままだった。父親は七十六歳になっていた。島田が知っている父親より、はるかに小さくなっていた。

「迷惑をかけるな」と父親は言った。

「来たかったから来た」と島田は言った。

 父親は何も言わなかった。しかし少しだけ、口の端が動いた。

 その夜、島田は子どもの頃に使っていた部屋に泊まった。六畳間で、本棚だけは昔のままだった。読み終えた漫画と、学校の教科書と、一冊だけ文庫本が残っていた。背表紙が日に焼けた、司馬遼太郎の小説。島田が高校の頃に読んで、そのまま置いていったやつだ。

 布団に横になり、島田は天井を見た。

 東京のマンションの天井より、はるかに低い。木の梁が走っていて、節の模様が昔と同じ場所にある。子どもの頃、眠れない夜にその節を数えていたことを思い出した。

 翌朝から、島田は仕事を始めた。

 島田工務店は地元の工務店で、主に住宅の新築と改修工事を請け負っていた。従業員は父親のほかに、職人が二人と事務員が一人いる。職人の一人は、島田も幼い頃から知っている大工の田辺さんで、六十三歳になっていた。もう一人は三十代の若い大工で、深川という名前だった。事務員は森下さんという四十代の女性で、週三回事務所に来て、書類仕事をしていた。

 島田は最初の数日、父親から引き継ぎを受けながら、会社の現状を把握していった。進行中の案件が二件、新規の見積もりが一件、それから春以降に予定されている修繕工事がいくつか。会社の規模は小さいが、地元の付き合いが深く、仕事は途切れずに来ていた。

 問題は、後継者をずっと考えてこなかったことで、父親が倒れた今、会社の実務を仕切れる人間がいないことだった。田辺さんは職人としての腕は確かだが、営業や見積もりは不得意だという。深川は若くて将来性はあるが、まだ経験が浅い。

「一郎が戻ってきてくれんと、この会社は終わりだった」と田辺さんは言った。現場で材木を運びながら、さらりと言った。

「大げさだ」と島田は言った。

「大げさじゃない」と田辺さんは言った。「あなたの父さんが、ここ数年心配していたのを俺は知っている。会社のことも心配していたが、あなたのことも心配していた」

 島田は返事をしなかった。

 帰ってきてから一週間が経った頃、島田は町を歩いた。仕事の合間に、少し時間が空いたからだった。

 相川町は人口一万人ほどの小さな町で、山と川に挟まれた盆地にある。中心部には商店街があるが、シャッターの下りた店が目立つ。スーパーは一軒、コンビニが二軒、あとは個人商店がいくつか。二十七年前より、明らかに町は静かになっていた。

 商店街を歩いていると、花屋の前で女が植木の水やりをしていた。

 年齢は島田と同じくらいか、少し若いくらい。エプロンをして、ゴム手袋をして、水やりの手を休めずに店先を歩いている。島田が前を通り過ぎようとしたとき、女が顔を上げた。

「あら」と女は言った。

 島田は立ち止まった。

「島田くん?」と女は言った。

 島田はしばらく、女の顔を見た。記憶の中から、何かが引っ張り出されてくる感覚。二十七年という時間がかかったが、確かに見覚えのある顔だった。

「……久保田、さん?」

 女は笑った。昔と同じ、少し照れたような笑い方だった。

「久保田から、今は高田になったけど」と彼女は言った。「懐かしいね。帰ってきてたの?」

「先週から」と島田は言った。「父親が倒れて」

「知ってる。お父さん、大変だったね」女は水やりの桶を下に置いた。「うちの花を、よくお父さんに買ってもらってたから」

「この花屋、高田さんの?」

「うん。ここ十年ほど、一人でやってる」

 島田は花屋の看板を見た。「花工房たかた」と書いてある。店先にはポットに入った草花が並んでいて、春の早い花がすでにいくつか咲いていた。

「一人で、というのは」と島田は言ってから、自分の言葉が失礼かもしれないと思い、途中でやめた。

「旦那と別れたの、五年前に」と高田さんは平然と言った。「子どもたちは二人とも、もう成人してるから。今は私一人」

「そうか」

「島田くんは?」

「俺も離婚している。五年前に」

 高田さんは少し笑った。「同じ年に、二人とも」

「偶然だな」

「偶然ね」と彼女は言った。そして手袋を外し、「せっかくだから少し話さない? 近くに喫茶店があるから」と言った。

 島田は断る理由を、特に思いつかなかった。

 喫茶店は商店街の端の方にある小さな店で、マスターが一人でやっていた。コーヒーが旨く、昼時は地元の人間で混むが、午後は空いている。二人はカウンター席に並んで座り、コーヒーを飲んだ。

 高田さんの旧姓は久保田美代子で、島田とは高校の同級生だった。あの頃のことを、島田は少しずつ思い出していった。クラスが違ったから、特別に仲が良かったわけではない。ただ文化祭の準備で同じ係になったことがあって、その頃に少し話をした記憶がある。明るくて、よく笑っていた。

「高校卒業してすぐ、地元で就職したんですか」と島田は聞いた。

「そう。花屋で働いて、二十四で結婚して、三十で自分の店を持ちたいと思って。旦那が反対したけど、勝手にやった」と高田さんは言った。

「反対されて、やったのか」

「やりたいことは、やらないと後悔するから」彼女はコーヒーカップを両手で包むように持ち、言った。「島田くんは、東京で何をしてたの」

「建設会社で、現場監督を」

「そう。じゃあお父さんの後を継ぐのは、自然な流れね」

「そうなのかもしれない」と島田は言った。「遠回りしてきたが」

「遠回りも、無駄じゃないよ」と高田さんは言った。「ね、また話しましょう。この町、話し相手が少ないから」

 島田は頷いた。

 帰り道、島田は商店街を歩きながら、夕暮れの空を見た。山の稜線に太陽が落ちていく。オレンジと紫が混じった空は、東京では見たことがなかった。いや、見ていたかもしれないが、見ていなかった。

 相川町に、春が来ていた。

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